高松高等裁判所 昭和55年(行コ)3号 判決 1989年4月26日
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
一 当事者の求めた裁判
1 控訴の趣旨
(一) 原判決を取り消す。
(二) 被控訴人が控訴人の昭和四七年三月一五日付在学期間延長申請に対してなした同月三〇日付不許可処分を取り消す。(第一次請求)
(三) 右不許可処分は無効であることを確認する。(第二次請求)
(四) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
2 控訴の趣旨に対する答弁
主文同旨。
二 当事者の主張
1 控訴人の本案前の主張
(一) 杉井順子ら六名は、原審判決言渡期日において、判決の言渡に先立ち、書面により、本件に対する共同参加の申立と同時に関与裁判官全員に対して忌避を申し立てた。そして、控訴人も右申立と相前後して、口頭により同様に忌避を申し立てた。
(二) しかるに、原裁判所は、右各忌避の申立をいずれも無視して判決の言渡を了したが、忌避の申立があれば、訴訟手続は停止されなければならないのであるから、右判決の言渡は民訴法四二条に反した違法なものであり、原判決は取消を免れない。
2 控訴人の請求原因
(一) 控訴人は、昭和三五年四月徳島大学医学部医学科に入学し、同四一年三月同学科を卒業、同四二年四月同大学院医学研究科博士課程に入学し、同四六年三月三一日に、同四七年三月三一日までの同課程在学期間の延長を許可された。
(二) 控訴人は、同四七年三月一五日付で更に同四八年三月三一日までの在学期間の延長の許可申請(以下「本件申請」という。)を被控訴人にしたところ、被控訴人は同四七年三月三〇日付で、右延長を許可しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をなした。
(三) しかしながら、本件処分には次のとおり瑕疵があり、この各瑕疵は、本件処分の取消事由に当たり、また、重大、かつ、明白で無効事由にも当たるものである。
(1)ア 徳島大学大学院学則(以下「大学院学則」という。)二〇条二項によれば、同大学院医学研究科については「博士課程の最短在学年限は四年とする。ただし、特別の事情がある場合は、更に四年を限り在学を許可することがある。」旨規定されている。
イ 右の趣旨は、徳島大学大学院生(以下「院生」という。)の最短在学年限は四年であるが、必要な単位の修得や博士論文を作成しての最終試験に合格しない場合には、在学年限は自動的に更新され、院生は更に四年間その身分を保有できることを定めていると解される。
ウ 右のような解釈は、大学院は、学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥を究め、もって、文化の進展に寄与する有意な人材を養成することを目的とするものであるところ(学校教育法六五条)、徳島大学においてすら、その学則(以下「大学学則」という。)二八条で、大学学部につき「在学八年(医学部医学科学生は一二年)に及んでも、なお、所定の試験に合格しない者に対しては、学長は、これを除籍する。」旨を規定し、大学生は八年もの身分を保障されているのであり、前記のような目的を達成するために、院生の自主的な研究活動が保障されなければならない大学院においては、大学との比較においてしごく当然に最短在学年限四年を超えて、更に四年間の身分を保障されるべきものであること、右に加えて、全国のその他多数の大学院において、その院生は最低六年の在学を保障されていること、大学院学則二〇条二項の在学年限につき最短と規定されていること、大学学則に大学生に対する除籍の定めがあるのに、大学院学則は同様の規定がないことからして、当然支持されるべきである。
エ そして更に、右のような見地に立てば大学院学則二〇条二項にいう「特別の事情」とは、研究活動を継続するために院生が在学期間延長の申請さえすれば、それで足りるというべきである。
オ したがって、同項のいう「許可」とは講学上の許可もしくは認可とは異なり、自動的に継続されている院生の身分を確認する手続行為にほかならず、同項にいう「不許可」とは自動的な更新に対する拒絶処分であり、大学院学則には大学学則に定める懲戒や退学を命じる規定がないことに鑑みると、右拒絶処分は院生に懲戒処分としての退学ないし疾病による退学にも比肩すべき事由のある場合にのみなしうるところの剥権処分と解すべきである。そして、控訴人には右のような事由は一切なかった。
(2) 本件処分は本件申請の手続経過をつぶさに検討すれば、控訴人が本件申請をするに際し、当時徳島大学における闘争(以下「徳大闘争」という。)により停職処分をうけていた山本光代を保証人に立てたこと、その後当局の意向に反して保証人を替えなかったことを最大の理由としていることが明白である。しかし、このような理由は前記のとおり大学院博士課程の設置目的に全く反するものである。
(3) 本件処分は昭和四四年ころより続いた一連の徳大闘争を嫌悪した被控訴人が、徳大闘争の結果六か月の停職処分を受けた山本光代を守る会の一員として活動していた控訴人に対し、その報復としてなしたものであるから、思想信条に基づく差別として憲法一四条に違反している。
(4) 本件処分は実質的には博士論文を作成するなど学問中であった控訴人に対する退学処分であって、被控訴人の能力に応じた教育を受ける権利及び学問の自由を侵害するものであるところ、大学院は学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥を究めて、文化の発展に寄与することを目的とするものであるから、在学期間の延長の拒否はかかる教育目的から決定されるべきであって、本件処分は控訴人の右権利を無視し、かつ、教育目的を逸脱してなされた権利濫用にわたるものといわなければならない。
(四) よって、控訴人は被控訴人に対し、第一次的に本件処分の取消を求め、第二次的に本件処分が無効であることの確認を求める。
3 控訴人の本案前の主張及び請求原因に対する被控訴人の認否及び主張
(一) 控訴人及び杉井順子らが原審判決言渡期日において原審関与裁判官に対し民訴法所定の手続により、忌避の申立をなした事実はない。
(二) 請求原因(一)及び(二)の事実は認める。同(三)のうち(1)アの事実は認め、その余の大学院学則二〇条二項の解釈に関する控訴人の主張は争う。同(三)の(2)は否認する。本件処分理由は控訴人主張のように控訴人が本件申請につき山本光代を保証人にしたことに関するものではなく、後述のとおり控訴人に成業の見込みがなかったことを直接の理由とするものである。控訴人の主張は次のとおりである。
(1) 大学院学則二〇条二項の趣旨について
ア 同条項は徳島大学大学院医学研究科博士課程の最短在学年限は四年であって、同課程の院生は右四年が経過すれば、特に同条項所定の在学期間延長の許可がない限り、当然に院生としての身分を喪失することを規定したものと解すべきである。その理由は同条項の素直な文理解釈の他に次のような根拠を有する。
イ 同条項にいう在学年限は学校教育法五五条にいう修業年限に該当するところ、大学院の修業年限については大学のそれと同様、国の法令で規定される事項であるものの、大学院に関しては大学についての学校教育法五五条(医学及び歯学の部において医学又は歯学を履修する課程についてはその修業年限は六年以上)のような規定が同法上に直接規定されていない。しかし、大学院は博士その他の学位を授与する機関であり(同法六八条)、それらの学位を授与する要件としての在学年数に関する「学位規則」(昭和二八年文部省令第九号)の定めとの関連上、その修業年限は博士課程にあっては五年以上(医学又は歯学の研究科にあっては四年以上)とされているのである。そして、右年限のうち、「六年」、「四年」が最低修業年限ということになるのであるが、これが大学院学則二〇条二項にいう最短在学年限と同意語であり、大学生ないし大学院生が、所定の教育課程に基づいて、通常の勉学をするならば右六年ないし四年で当該大学を卒業しあるいは大学院を修了することができるということ、すなわち、大学学生又は大学院生は少なくとも右年限は修業し存在すべき期間を意味しているに過ぎず、右学生らが右各年限を超えて大学又は大学院に在学しうることを定めたものではない。
ウ 右の修業年限については一律に国の法令で定められるところであるが、一方、学生の在学関係等身分取扱いに関する事項(例えば学生の入・退学、進学の課程の修了及び卒業等)を定めるについては、学校教育法及び関係法令で規定した範囲内で大学に広い裁量権が与えられており、多くの大学ないし大学院では、教育的配慮に基づき、最低修業年限としての期間を超えてもなお一定の年数の範囲内において、大学生ないし大学院生が在学しうるようにその学則で定めている。そして、前記修業年限を含めて大学生らが在学しうると定められた期間を在学期間あるいは在学年限というのである。
エ 徳島大学では右裁量権に基づき大学院学則二〇条二項において大学院医学研究科博士課程の最短年限(在学すべき期間)を四年とし、特別の事情があれば更に四年の限度内で在学を許可することがあると定めて、同課程における在学期間を合計八年までと規定しているのである。
右のような大学院学則の定めは大学学則一四条の定めよりも厳しいものであるが、これは、大学院博士課程は大学よりも水準の高い「独創的研究によって従来の学術的水準に新しい知見を加え、文化の進展に寄与するとともに専攻分野に関し、研究を指導する能力を養うことを目的とする。」ものであるから、一年毎に成業の有無を含めて教育的配慮を加えるべき特別の事情の有無を点検することを定めているのであって、他の大学が右裁量権に基づいて在学年限をどのように定めているかには関係なく、これが合理的であることはいうまでもない。したがって、前記二〇条二項の定めは徳島大学の有する裁量権の範囲内のものであることは明らかである。
オ なお、控訴人は大学院学則に、大学学則に定める除籍の規定がないことをもって、その主張の根拠の一つとしているが、右除籍とは大学学則一四条に定める在学期間(医学部医学科は一二年)一杯在学したが、所定の試験に合格しないため、当然に学生の身分を喪失した者につき、学長が事務手続上そのことを明らかにする行為に過ぎず、それにより、学生の身分を喪失させる効果を有する行為ではない。したがって、大学院学則に除籍の規定がないことが控訴人の主張の根拠にはなりえない。
カ したがって、右在学期間延長の許可とは、本来であれば院生としての身分を喪失する者に対し、特別の事情があることを理由としてその身分を継続して保有させるところの講学上の特許に当たる行政処分であるから、被控訴人としては右最短在学年限を超えて在学を希望する院生に対して当然にその許可を与えなければならないものではなく、右許可を申請する者につき懲戒処分としての退学に比肩すべき事由がないとしても、なお、同条所定の「特別の事情」がないと認めれば右許可をしないことができるのである。
キ そして、「特別の事情」とは在学期間延長の制度が本来恩恵的なもので、最短在学年限でやむをえず大学院を修了しえなかった者にできる限り所定の課程を修了させようとの教育的配慮に基づいて設けられたものであるから、最短在学年限の四年で大学院医学研究科博士課程を修了しえなかったことが当該院生の責に帰すべからざる事由に基づくものであり、かつ、今後一定期間内に成業の見込みのあることが明らかであることを意味するというべきである。そして、右「成業」とは所定の単位を修得し、博士論文を完成し、最終試験に合格するに止まらず、博士課程における教育目的(前記大学院学則三条三項)に照らし、教育研究の指導者たるにふさわしい能力と研究態度を身につけることをも含むというべきである。
(2) 被控訴人は控訴人の本件申請に対し大学院医学研究科委員会の審議を経て、控訴人においては前記特別の事情はないものと認め、本件処分をなしたものであるが、その間の事情は次のとおりである。
ア 控訴人は昭和四二年四月院生となって以来、しばしば指導教官の指導に従わなかった。すなわち、控訴人は院生として指導教官の指導に従わなければならないのに、入学当時指導教官であり主任教授である梶本義衛(以下「梶本教授」という。)の勧める研究テーマを拒否してその指導に従わず、同四四年七月一二日徳島大学医学部基礎医学棟が封鎖されて以降は右封鎖が三週間で解除されて研究可能な状態に復したにもかかわらず、同四六年三月末まで全く研究活動をなさず、同年四月に一年間の在学延長を許可されるや、梶本教授からの、従来のテーマによる研究を完成せよとの指導に従わず、勝手に研究テーマを変更し、かつ、同教授の再三の勧めにもかかわらず、大学院入学以降同四七年三月までの五年間に一度も学会発表をなさず、同年四月末にようやく薬理学会において、右変更したテーマにつき、ごく一部の研究結果を発表したにすぎない。そして、控訴人は取得すべき単位さえも残していた。
イ 控訴人は、昭和四六年四月一日から同四七年三月三一日までの在学期間延長に際し、医学研究科委員長である教授四方一郎(以下「四方教授」という。)及び梶本教授から研究態度等につき厳重な注意を受けたにもかかわらずこれを守らなかった。すなわち、右延長申請は単位未修得を理由とするものであったが、これは控訴人において前記のとおり、同四四年七月から四六年三月まで故なく研究を放棄した結果であるから、本来は延長を認めるべき筋合ではなかったものの、控訴人から従来の態度を反省しており、今後一年間梶本教授の指導の下に研究に努め、未修得単位を修得する旨の申し出があったため、被控訴人は右延長を許可した。しかし、その際四方教授及び梶本教授は控訴人に対し特に延長が許可されたのであるから、梶本教授の指導に従って研究に専念するよう厳重に注意した。しかるに、控訴人は出校状況も悪く、わずかとはいえいまだ未修得単位を残し、博士論文は未着手のままになっていた。
ウ 前記山本光代が保証人として不適当であることが、本件処分理由になっていないことは前記のとおりであるが、右保証人に関する事実も成業の見込みがないことの事情として考慮されるべきである。すなわち、山本光代は徳島大学において懲戒処分により停職処分を受けていたものであり、このような人物が保証人として不適当であることは多言を要しない。しかるに、控訴人は梶本教授が控訴人の研究、勉学の真の保証人となり得る者を保証人として立てるように示唆し、現に控訴人の属する薬理学教室の助教授倉本昌明(以下「倉本助教授」という。)から保証人になろうという申し出さえ受けながらこれを拒否し、しかも停職中の山本光代を保証人に立てたものであり、このような控訴人の態度は大学院において教官からの指導を受けつつ研究、勉学しようとする意思のないことを表明しているというべきである。
エ 控訴人は本件処分により院生の身分を喪失しもはや大学施設の利用ができなくなったにもかかわらず、その後も引き続いて大学構内に立ち入り、大学関係者の退去通告を無視し、原判決別紙(一)ないし(四)記載のとおり各種の妨害行為を重ね、もって学内の教育的環境の維持を困難にした。
右は本件処分後のことであるが、本件処分の違法性判断の基準時は口頭弁論終結時と解すべきであり、しからずとしても、本件処分の違法性、すなわち、成業の見込みがなく前記特別の事情はないと判断したことの適法性を裏付ける事情として考慮しうるものである。
4 被控訴人の主張に対する控訴人の反論
(一) 被控訴人の主張(二)(1)について
仮に、大学院学則二〇条二項所定の「特別の事情」を被控訴人の見解のとおり成業の有無によって判断すべきであるとしても、「成業の見込み」が教育研究の指導者たるにふさわしい能力を身につけることを含むというのは、右成業の意味を余りにも狭く解釈するもので不当である。なぜならば、大学院学則三条三項では「博士課程は独創的研究によって従来の学術水準に新しい知見を加え、文化の進展に寄与する。」とあるが、これは、学問や研究のあり方を問い、問題意識や批判精神をもって主体的に研究活動を行う機会を提供することを前提にしているのであって、大学の教官になることを指すものではないからである。
(二) 同(二)(2)アについて
控訴人が昭和四二年四月薬理学教室に入室した際梶本教授から与えられたテーマは「放射能の生体に与える影響」というものであったが、これはいかにも荒唐無稽で同教室員の誰もが本気で手を付けず、梶本教授自身ですらこれを放置していたものである。控訴人は入室に際し自ら行動薬理(薬物による中枢神経系ないし行動に対する影響)のテーマを選択し、梶本教授の承認の下に研究を続け、「行動異常催起薬としてのD-サイクロセリンの検討」と題するレポートの第一稿を昭和四四年二月、第二稿を同四五年九月一八日、最終稿を同四六年夏すぎころそれぞれ梶本教授に提出し、その都度同教授の助言と指導を仰いだ。また、控訴人は右テーマの研究とは別に、昭和四四年秋ころから同四七年四月まで同教室員の石村泰子助手らと共に抗炎剤の甲状腺に対する影響に関する共同研究を行い、その結果について控訴人は同四七年四月二九日第四五回日本薬理学会で発表し高い評価を得ている。右共同研究は主従の別なく同教室員らが対等の立場で研究したもので、梶本教授においてもこれを承認し、実験試薬や実験動物の購入、施設の使用についてその都度許可を与えている。そして、右共同研究を熱心に行ったことは徳島大学医学部の同位元素研究室の使用回数が昭和四六年三月から同年一〇月までに合計七〇回に及んでいることからして明らかである。
加えて、控訴人は同四五年度に合計一二単位を取得しており、これが特に劣っているということはない。
したがって、控訴人が同四四年七月以降同四六年三月末まで全く研究活動をなさなかったという被控訴人の主張は全く事実に反するものである。むしろ、梶本教授は控訴人が研究していた行動薬理に関し門外漢で、控訴人に対する指導能力は全くなく、控訴人が提出し指導を求めたレポートについても、長期間ただ放置しているだけであった。梶本教授の関心事は教室員がその研究成果を学会あるいは論文として発表することのみであって、控訴人に対してもこの点を指導しようとしただけである。しかし、これこそが医局講座制の本質的な問題点であり、講座の頂点に立つ教授は研究する人間よりも教室員が出した実験結果が大切なのであり、その上前をはねて自己の業績とするのである。このような教授の指導ないし講座制の本質こそ問題にされなければならない。
(三) 同(二)(2)イについて
控訴人が被控訴人から昭和四六年三月第一回目の在学期間延長許可を受けた際四方教授から将来の研究等について具体的に注意、指導を受けたことはない。同教授は在学延長後の研究方向について控訴人の意思を確認した程度にすぎない。当時、被控訴人は在学期間延長を申請する院生の希望ないし意思をそのままに尊重する扱いであり、その際に格別の指導ないし条件を付してはいなかった。
控訴人がその研究を放棄した事実がないことは前述のとおりであり、その研究活動からすれば出校状況が悪いとの評価を受けるはずはない。ただ、博士論文については本件申請の際の理由の一つとして右論文の未完成を挙げているが、これは単なる名目的なもので、控訴人は同教室に入室する時から本件申請まで一貫して「学位は目的ではない。」と明言しているところであって、博士論文完成を目的とはしていなかった。しかし、これが前記「成業の見込み」の有無を左右するものではないことは、控訴人の従前の主張から多言を要しない。
(四) 同(二)(2)ウについて
本件処分の真相は徳島大学が大学闘争のいわゆる正常化過程において大学に対して批判的な活動を行う者に対する報復の一環としてなされたものであり、山本光代を処分したのと軌を一にするものである。すなわち、山本光代の停職処分の理由について被控訴人は種々掲げているが、「医学部付属病院中央病歴予定室の占拠に関与した行為」については山本光代が関与したと認定するのに無理があり、したがって、「ハンガーストライキと称する行為」等にかこつけて山本光代をあえて停職処分に付した。しかし、右停職処分については教授会でも意見が分かれ、賛成者二九人に対し反対者も八人を数えるのである。控訴人がこのような山本光代を本件申請の保証人としたのは自己の学問研究上の良心から大学のあり方を問い、大学の講座制に対する批判的な見解を表明したものであって、まさにこれは大学院において学問に従事する者の学問の自由に関する事柄であって、大学院における研究という奥深い作業に対し安易に消極的な評価をすることはできず、これをもって本件処分のわずかな理由ともされてはならないものである。
(五) 同(二)(2)エについて
本件処分後の泥沼状態は本件の不当処分がなければ存在しなかったもので、その責任は挙げて本件処分をなした被控訴人に有り、本件処分を正当化する理由にはならない。
三 証拠関係<省略>
理由
一 まず、控訴人の本案前の主張について判断する。
<証拠>を総合すれば、原審判決言渡期日において、控訴人及び控訴人の訴訟を支援しようとしていた杉井順子らは同期日における判決言渡を不服として、裁判長が判決言渡を始め主文の朗読が終わる寸前、右杉井において何事か言いながら裁判官席の前に歩みより共同参加と忌避の各申立を含むような内容の書面(乙第一一一号証の別紙1はその写し)を右裁判官席の机上においたが、裁判長はこれに取り合わず朗読を続けたため、控訴人においても右杉井の右行為と相前後して裁判長に抗議しつつ手にしていたボールペンを裁判官目掛けて投げつけたこと、しかし、裁判長は朗読を続け言渡を終えた後直ちに退廷し、右書面はそのまま右机上に残されたことが認められ、右認定に反する右控訴人本人尋問の結果の一部及び甲第三九号証の一は措信できない。右認定事実によれば、右杉井の右書面提出行為はもち論、仮に右杉井及び控訴人において裁判長に歩み寄ったり抗議した際忌避を内容とするような発言があったとしても、これらはすべて単に判決の言渡を妨害するための行為にすぎず、訴訟行為としての忌避申立があったとはとうてい認められるものではない。それ故に原審第二〇回口頭弁論調書(判決言渡期日)にも控訴人及び右杉井ら六名が原審裁判官を忌避する申立をなした旨の記載は一切なく、またこれをうかがわせる記載もないのである。本主張は採用できない。
二 請求原因(一)、同(二)及び同(三)(1)アの事実については当事者間に争いがない。
三 そこで、大学院学則二〇条二項の趣旨について判断する。
1 <証拠>に学校教育法の修業年限及び学位等に関する規定によれば、大学及び大学院における修業年限については法令上所定の年限が定められており、大学医学部については六年以上、大学院医学研究科博士課程については四年以上とされていること、そして、右修業年限とは修業すべき年限、すなわち、在学すベき年限の意味であり、右六年以上あるいは四年以上とされているのもその範囲で当該学校の修業すべき年限が定められていれば足りるとの意味にすぎず、各大学及び大学院に対して修業すべき年限を定めるにあたっての下限を六年あるいは四年と制限したものであること、したがって、当該学校の学生が六年以上あるいは四年以上修業ないし在学しうることを定めたものでないこと、大学院学則二〇条二項の最短在学年限というのは修業年限としての六年以上あるいは四年以上という場合の六年ないし四年を意味するものであること、一方、大学及び大学院に在学して修業しうる上限としての最長在学年限については当該学校の裁量により定めるとされていること、徳島大学大学院は右のような法令の要請により大学院学則二〇条二項において博士課程の修業すべき年限につき医学研究科においては四年と定め、その一方、最長在学年限について、特別の事情がある場合は、医学研究科にあっては四年を限り在学を許可する、と定めていること、右のような大学院学則の定めは大学学則の定め(大学学則一三条は医学部医学科の修業年限は六年とし、同一四条において在学期間は修業年限の二倍を超えることができない、と定めている。)よりも厳しいものであるが、徳島大学大学院においては法令により認められた裁量権に基づき、大学院博士課程が大学よりも水準の高い「独創的研究によって従来の学術的水準に新しい知見を加え文化の進展に寄与するとともに、専門分野に関し研究を指導する能力を養うことを目的とする(大学院学則三条三項)。」ものであることに鑑み、一年毎に成業の有無を含めて教育的配慮を加えるべき特別の事情の有無を点検することにしていることがそれぞれ認められる。
2 以上によれば、大学院学則二〇条二項の趣旨は、医学研究科の院生は最短在学年限の四年が経過すれば同条項の在学期間延長の許可がない限り当然に院生としての身分を喪失するが、特別の事情があればその在学期間を延長し同課程修了の便宜を図ることを定めているというべきで、したがって、同条項にいう「許可」はこのような見地から右特別の事情があると判断される場合に与えられるものとして、自由裁量に属する行為と解される。
3 控訴人は、大学院学則二〇条二項に定める在学年限が最短と表現されていること、大学よりも研究活動が強く保障されるべき大学院においてその最長在学年限が厳しく規制されるとするのは不当であること、大学においては除籍の規定があるのに大学院においてはこれがないこと、他の国立大学院においてはその院生が在学しうる年限はすべて六年ないし八年とされており均衡を失していることなどから、前記「許可」は手続確認的なもので、その「不許可」は当然保有する院生の身分を奪う剥権処分である旨主張する。
しかしながら、最短在学年限の意味については既に述べたとおりであり、また、徳島大学がその有する裁量権に基づき、大学院学則の在学しうる年限を大学学則のそれよりも厳しくしたことも既に述べたとおりであるが、その根拠も合理的である。確かに、<証拠>によれば、東京大学大学院など他の国立大学院においてはその院生が在学しうる期間を短くても六年としていることが認められるが、しかし、これは各大学における裁量権の行使の結果であって、これが直ちに大学院学則二〇条二項の解釈に影響を与えるものとは認め難い。なお、控訴人は大学院学則に除籍の規定がないことを挙げるが、大学学則に定める除籍は大学生が大学学則一四条に定める在学期間(医学部医学科は一二年)一杯在学したが、所定の試験に合格しないため当然に学生の身分を喪失した際学長が事務手続上そのことを明らかにする行為にすぎず、それにより、学生の身分を喪失させる効果を有する行為でない。したがって、あたかも大学生は除籍によって初めてその身分を喪失するものとしたうえ、この規定のない院生はその最短在学年限を超えてもその身分を喪失しないとするのは失当である。以上により控訴人の主張は採用できない。
4 次に、大学院学則二〇条二項にいう「特別の事情」がどのようなものであるかについて検討すると、大学院設置の目的や同条項の前記趣旨に鑑みれば、特別の事情とは、法令にいう修業すべき年限である最短在学年限の四年で徳島大学大学院医学研究科博士課程を修了できなかったことにつき合理的な理由があり、かつ、在学期間を延長して修業することにより同課程修了の見込みがあることをいうものと解される。そして、前記乙第二号証によれば、同課程の修了は専攻科目につき五〇単位以上を修得し、かつ、学位論文を提出し、所定の最終試験に合格する必要があり(大学院学則一〇条一項)、また、同課程は、前記大学院学則三条三項の趣旨からも明らかなとおり、教育研究の指導者たりうる人材の養成をも目的とするものであることからすれば、結局、同課程修了の見込みとは、右一〇条一項所定の事項を修学完了すると共に、教育研究の指導者たるにふさわしい能力をも修める見込み(以下「成業の見込み」という。)をいうと解するのが相当である。
5 右の点に関し、控訴人は同課程修了の見込みの中に教育研究の指導者たるにふさわしい能力を修めることを含めるのは不当である旨主張する。
しかしながら、大学院設置の目的ないし法令の定め(前記乙第六号証大学院設置審査基準要項二条二項)や前記大学院学則三条三項及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一〇号証からうかがわれる院生に対する指導状況に照らせば、徳島大学大学院においては教育研究の指導者の養成も重視しているものと認められる。したがって、成業の見込みの中にはこれをも含むというべきであるから、控訴人の右主張は失当である。
四 次に、控訴人の修学状況及び本件処分の経緯等について判断する。
前記争いのない事実に、<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができ、右各証言等中この認定に反する部分は右採用の各証拠に照らし措信できず、他にこれを動かすに足りる証拠はない。
1 控訴人は昭和四二年四月精神科と治療学に対する興味から徳島大学大学院医学研究科博士課程に入学し、同時に薬理学教室に入室した。同教室は、生薬、漢方薬の研究者である梶本教授を中心に倉本助教授及び他一名の講師と、浜田良策(以下「浜田助手」という。)、石村泰子(以下「石村助手」という。)の両助手らで構成されていた。
2 控訴人は同教室に入室後もっぱら倉本助教授の指導の下に、一般薬理と称される薬理学一般の知識と基礎的な実験技法を修得した。やがて、梶本教授は控訴人の研究テーマについて放射能の生体細胞の染色体に及ぼす影響に関する研究を希望したが、控訴人は前記学問に対する興味から薬物による中枢神経系への影響ないしは行動に対する影響(以下「行動薬理」という。)について研究したいと希望し、同教授もこれを了承した。そこで、控訴人は同年暮ころから薬物としてD-サイクロセリンを選び、これを投与されたマウスの異常行動に関する研究を開始した。
3 控訴人は研究の結果につき昭和四四年二月ころD-サイクロセリンがマウスに異常を及ぼす薬物となる可能性があるという内容の中間総括を行い原稿用紙にまとめて(以下「第一稿」という。)これを梶本教授に提出した。そして、同四五年九月ころD-サイクロセリンを投与されたマウスの脳内のある物質の変動がその行動の質量の変化と対応して起こっているという内容のレポート(以下「第二稿」という。)を、同四六年九月ころ興奮作用のある薬物を大量投与すれば起こるけいれんという要素をD-サイクロセリン投与マウスから除外できるかという内容を含むレポート(以下「第三稿」という。)をそれぞれ同じく原稿用紙にまとめて梶本教授に提出した。
4 昭和四三年暮ころから各地でいわゆる大学紛争が始まり、徳島大学においても控訴人が右第二稿を提出する前の昭和四四年七月一部学生による医学部基礎医学棟の封鎖が実行され、三週間後に封鎖反対派学生によりこれが解除されるなどの事態が起こり、その後大学当局による学生らの処分、これに対する処分撤回闘争などの紛争(以下「徳大紛争」という。)が続いた。控訴人もこの影響を強く受け大学改革の観点から大学当局や梶本教授を激しく攻撃し、そのような内容を記載したビラを薬理学教室にはるなどの行動を取り、梶本教授と激しく対立した。そして、同四五年三月には(文責、浜本)と表示して、「梶本教授における教室員処分の思想を告発する。」と題する書面を広く学内に配付した。右書面は控訴人が梶本教授に対し同四四年一一月に辞職した浜田助手の後任として自分を充てるよう要求し、同教授がとんでもないこととしてこれを拒否したことを内容とするものであるが、全体として著しく梶本教授を中傷するものであった。
5 昭和四四年七月九日控訴人を含む院生や助手ら一七名は研究放棄を宣言し、これを契機として各所で自主講座ないし自主学習と称する勉強会を始めたが、控訴人も右講座に参加すると同時に薬理学教室においても梶本教授らの承諾を得ずに浜田、石村両助手と自主学習を始め、やがて三名が対等の立場で各人の従来の実績の中から互いに関連する分野での共同研究をすることを決め、そのテーマとして「非ステロイド性抗炎剤のラット甲状腺機能に及ぼす影響」(以下「抗炎剤の研究」という。)を選び同四四年夏ころから同四五年夏ころまでその実験計画を練り、その後同四六年三月ころまで予備実験を行い、それ以降本実験を重ねその結果をまとめ、本件処分後である同四七年四月第四五回日本薬理学会総会において控訴人により学会発表がなされ、その内容は一応評価すべきものがあった。なお、右自主学習については当初、梶本教授はこれを無視していたものであるが、控訴人らは予備実験に掛かるころから倉本助教授に相談するようになり、同人から実験動物・試薬、その他施設の利用等の便宜を受け始めたため、梶本教授もこれを黙認したような形になり、ついに本実験に掛かるころから右共同研究を正式に同教室の研究として認めざるをえなくなった。
6 控訴人と梶本教授の関係は昭和四三年末ころまで良好であったが、各地の大学紛争を契機として控訴人の方から大きく変化していった。控訴人は同四四年二月に提出した第一稿について、このような場合に院生はその教授の校閲を受けるために直ちに印刷所に回せるように清書し図表等もレタリングするのが当然とされていたが、右控訴人の場合には原稿用紙に乱雑に記載され図表等も鉛筆書きのままであった。これは控訴人が学会誌その他雑誌への掲載を拒否するために意図的に行ったものであるが、その理由とするところは学会の回数が多く研究の期間がない学会のあり方に疑問を持ったこと、雑誌の発表については教授や助教授の業績のように掲載され、院生は単にこれを手伝った体裁になることが不当であるとするものであった。控訴人のこのような考え方は一貫して持続され、普通の院生なら入学後二、三年経れば年に一、二回は学会等に発表するところ、控訴人は以後ことあるごとに梶本教授や倉本助教授から勧められてもこれを拒否し、その指導に従わなかった。また、博士論文の作成についても学位の取得が目的でないとして同じく梶本教授らの指導に従わなかった。そして、徳大紛争がし烈になり前記のように控訴人が梶本教授に反抗、敵対したことから、ますます二人の間の信頼関係は崩壊しその交流関係も断絶した。第一稿提出後このような断絶の中で第二稿、第三稿が提出されたが、その提出の仕方は勝手に梶本教授の机に置いておくという類いのもので、梶本教授には第一稿と同じく原稿用紙に乱雑に書かれているその形式からしてこれが行動薬理に関する論文であるとの認識ができず、その内容の検討も十分しなかった。
7 控訴人が履修しなければならない博士課程の単位は、主科目四〇単位、副科目一科目の六単位、選択科目一科目の四単位、合計五〇単位以上となっているところ、控訴人の単位履修状況は次のとおりである。
昭和四二年度 主科目一五、副科目の生化学二、選択科目の神経精神医学二
同四三年度 主科目一三、副科目の生化学二、選択科目の神経精神医学二
同四四年度 副科目の病理学第一、一
同四五年度 主科目一〇、副科目の病理学第一、二
同四六年度 主科目二、副科目病理学第一、二
以上を要約すれば、修了予定の同四五年度末では、主科目三八単位を取得し、不足二単位、副科目を生化学とすれば四単位を取得し、二単位不足、病理学第一とすれば三単位を取得し、三単位不足、選択科目の四単位はすべて履修となり、同四六年度においては、主科目及び選択科目はすべて履修、副科目病理学第一で一単位不足となる。
8 控訴人は昭和四六年二月ころ単位未修得を理由に倉本助教授を通じて梶本教授に対して一年間の在学期間延長に関する意向を打診した。同教授は控訴人が自己に反抗ないし敵対しその指導に従わないこと、大学紛争を境にして出校状況も悪いこと、薬理学教室内の秩序を著しく乱すことなどからその延長に懸念を抱いたが、同年初めころから控訴人の態度が少し変化し神妙になったことを考慮し、控訴人に対して自己の指導に従い未修得単位を取得し、行動薬理に関する論文を完成するよう注意したうえ、控訴人の意向に沿うことにした。また、在学期間延長の許可の当否を審議する大学院医学研究科委員会の委員長四方教授は右審議に先立ち控訴人と梶本教授を一緒に医学部長室に呼び出し、控訴人に対して従来の態度、行動を注意したうえ、なお控訴人が真面目に研究する意思を有しているかを確認した。控訴人の右第一回目の在学許可申請は系列委員会(大学院医学研究科における病理系、内科系等の系列毎に構成される委員会で、この長は前記大学院医学研究科委員会の委員となる。)、大学院医学研究科委員会での審議を経て、控訴人と同様大学紛争に関与し控訴人と同様の申請をしていた他二名と共に許可された。しかし、右審議の中で申請者三名から「本学の教育方針に従って、学則を守り、学術の研究に専念し、人格の陶冶に努めることを誓う。」旨の宣誓書を徴収することが決議され、控訴人もこの宣誓書に署名押印して提出した。右許可を受けた控訴人は前記共同研究と行動薬理の研究は続けた。しかし、大学及び薬理学教室ないしは梶本教授に対する態度は右延長許可を受けるとすぐ元に戻り、従前どおりの態度を一貫して取った。また、当時徳大紛争における活動に関し懲戒停職処分中であった山本光代助手を守る会の支援行動をするなどしてその出校状況も悪かった。
9 被控訴人は昭和四六年末ころから単位未修得、博士論文未完成を理由に二回目の在学期間の延長を考えるようになり、翌四七年二月末ころ再び倉本助教授を通じて、梶本教授にその意向を打診した。これに対して梶本教授は従来からの控訴人の態度及び一回目の延長後の態度からみて不相当と考えたが、一応薬理学教室の属する系列委員会に右延長の件をはかったところ、委員の中には不本意ながら再度の延長を認めたらどうかという意見を述べる者もおり、にわかに決着しなかった。しかしその後控訴人は本件申請手続上必要な延長願書中の保証人欄に前記山本光代と記入して本件申請をなしたことが判明した。そのため、梶本教授は控訴人に対し保証人が不適当であるから変更するように注意し、倉本助教授もまた自分が保証人になってよいとして控訴人に右変更を促した。これに対し控訴人は保証人を山本光代にすることに意義があるとして拒否した。梶本教授はその後の系列委員会において右事情を報告し、とにかく、控訴人の指導ができないこと、わずかながら未履修単位があることなどを説明した(なお、控訴人のように在学五年に及んでもなお未修得単位があるというのは前例がない。)。その結果同委員会においても再延長は不適当との結論に達し、同年三月二三日開催の大学院医学研究科委員会にその旨報告をなし、同委員会は控訴人の従前の研究態度、行動等につき審議した後に票決し、その結果圧倒的多数で再延長不承認の議決がなされた。そして、同委員会は被控訴人に対し次の内容の添付書類を添えて、その議決を報告した。
「再延長不承認理由書
一 大学院学生として、指導教官の指導に従わないことがあった。
二 昭和四六年四月一日から昭和四七年三月三一日までの在学期間の延長に際し医学研究科委員長及び指導教官梶本教授から研究態度等につき厳重な注意を与えたにもかかわらず、これを履行しなかった。
三 昭和四七年四月一日から一年間の延長を認めても、成業の見込みがあるとは考えられない。
以上により、教育的見地から在学期間の延長は適当でないと判断された。」
五 右認定事実に基づき、前記特別の事情の有無について判断すると、控訴人が行動薬理の研究及び抗炎剤に関する共同研究についてその内容としては一応の成果を挙げたことは否定できないが、院生は大学院における独立の研究者ではなく、その属する講座の指導教官の元で勉学研究することが本来的に予定されているのであり、その研究の成果についても学会の発表や論文の公表を通じてこれを公にすることが更に発展するための足掛かりとして当然に期待された行為であるにもかかわらず、偏狭、独自の考えからこれを拒否し、これを勧める指導教官の指導に従わず、しかも、学問研究のあり方を問うこと自体になんら異議はないものの、これを追及するに急な余り、指導教官である梶本教授をいたずらに敵視し、同人との信頼関係を決定的に崩壊させ、回復の見込みがない状況に至らせていたこと、第一回目の在学期間延長申請の理由として単位未修得を挙げ、この点について梶本教授らから注意を受けながら、わずか一単位とはいえこれを修得するに至らなかったこと、控訴人は本件処分後前記共同研究の結果につき学会で発表しているが、これは自主学習と称するものの延長線として認識してのうえであって、学会発表や論文作成に関する控訴人の従来の考えを変更したものではないことなどに鑑みれば、本件処分時において控訴人が院生の本分に則り、延長された一年間の在学期間において指導教官の指導に従って研究、勉学に専念し、もって未修得単位を履修し、かつ、学位論文を作成、提出し、最終試験に合格すると共に教育研究の指導者たるにふさわしい能力を身につけることは困難であるから、前記成業の見込がないとした被控訴人の判断は、本件処分後の控訴人の態度、言動につき判断するまでもなく相当であって、その間に裁量権を濫用し、これを逸脱した違法はないと認められる。
以上によれば、控訴人に大学院学則二〇条二項所定の特別の事情がないとしてなされた本件処分は適法であり、控訴人の主張は理由がない。
六 控訴人の請求原因(三)(2)(本件処分はその保証人を山本光代にしたことが最大の理由であるとの主張)及び同(3)、(4)(憲法違反等の主張)について判断すると、前記認定事実によれば、被控訴人は在学期間の延長を許可すべき特別の事情の有無について控訴人のこれまでの在学期間中の研究態度、勉学状況等を総合的に評価して決定したものであって、保証人の問題のみを重視したとは到底認められないし、既に判示したところから明らかなとおり被控訴人のなした本件処分は徳大紛争に関与したうえ前記山本光代の支援活動をしていた控訴人を嫌悪した結果、その報復としてなしたものとは認められず、また、被控訴人は教育目的から本件処分をなしたものであって裁量権を濫用したものではなく、不当に控訴人の教育を受ける権利及び学問の自由を奪ったものではないから憲法一四条に反したものとは認められない。右主張はいずれも失当である。
七 よって、右と同旨の原判決は相当で、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 高田政彦 裁判官 孕石孟則 裁判官 溝淵 勝は転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 高田政彦)